貧しくても幸福に生きる日々

金儲けに必死にならず、楽な生活をお伝えします。

4年と少し子育てをしてみての雑感

少し遅かった結婚と子供の誕生でしたが、大きな病気や怪我もなく、順調に成長してくれています。毎日大変ですが、小さな気付きはどこかに記録しておかないと忘れてしまうと思うので、この記事にまとめます。

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1.子供は少しずつしか成長しない
子供時代なんて一瞬だとか、あっという間に大きくなるという言い回しもよく聞きますが、毎日世話をしなければならない親の実感としては、子供の成長には本当に時間がかかります。ほとんど変化のない毎日を過ごして、半年とか一年後にやっとはっきりとした成長が感じられる程度です。それでもやはり大人に近づいていて、少しずつ少しずつ虫が這うような感じで成長していて、長く我が子の子供時代を一緒に過ごせるのが幸福でもあります。

2.必要なのは体力と忍耐力
新生児から1歳くらいまでは一晩寝かせてもらえません。2、3時間おきにはおっぱい/ミルクかオムツ交換で起こされます。そして1歳以下の乳児は眠いという理由でも泣きます。大人からすれば眠い時には寝れば解決すると思うのですが、眠気という言葉を知らない乳児には、眠い時の頭のぼんやりして瞼の重い感じがその他の苦痛と区別が付かずにただ泣くしかないのです。ひたすら毎日話しかけ続けて、「ねんね」や「ねむい」という言葉を覚えさせれば眠くて泣くのはだいたいなくなります。逆に寝起きで泣く事は4歳過ぎても人によってあるようです。
少し成長すると子供は絵本を読んでもらったり、一緒にボールで遊んでもらったりするのを喜びますし、大人に遊んでくれるように要求するようになります。それは大変かわいらしいのですが、同じ絵本を3回も5回も繰り返し読まされたり、ただボールを転がし合うだけの遊びをいつまでも飽きずに続けたりします。そこで試されるのが親の忍耐力です。子供は遊びを通じて知恵を付けますし、大人の話や絵本から言葉を覚え、あらゆるものに名前があり、複雑な世界を理解していきます。そのためには両親をはじめとした周囲の大人が忍耐強く子供自身の興味に合わせて、成長段階に合わせて遊びに付き合ってやらなければいけません。テレビやビデオ、Youtubeを見せておけばほったらかしでも平気ですが、今その子にあった教材というのは、やはり本人が強い興味を示しているものが一番だと思うので、注意深くそれを見極めて、忍耐強く提供してあげるのが親の務めかと思います。

3.スマホの誘惑は怖い
子育ては子供が起きてる間はほとんど休みなく注意を要する大変な仕事です。2歳以下の子供は油断して目を離すと、家の中であってもぶつけたり落ちたりしてどんな大怪我をするか分かりません。3歳や4歳で自由に走り回るようになると今度は交通事故の心配が一段と高まります。今はほとんどの成人がスマホを持っている時代で、子育ての合間でもニュースを見る、ブログを読む、動画を見るといった大人の興味関心を満たしてくれるコンテンツが用意に手の届くところにあります。しかし、ちょっとスマホを見ている間に子供が怪我をする事もありますし、遊んで欲しい子供の声を無視してしまって、子供を傷つけたり悲しませる事もあるでしょう。幼児を抱える親は自分の時間もなく、一人でどこかへ行くのも難しいので、つい手軽な気晴らしにスマホを使ってしまいますが、その誘惑に負けずにしっかり子供を見てあげたいと思います。見る事、観察して見守る事は最もベーシックな愛情表現であると思います。少しおしゃべりができるようになった子供は、必ず「見てて」と言います。親に自分ができる事を見てもらいたい、褒めてもらいたいという気持ちが出てきます。愛する人に見られたいというのも本能的な欲求ですから、ほんの数年間、自分の欲求を抑えながら子供を見つめる時間をなるべく多く作りたいものです。

とりあえずこの記事は以上にしておきます。
いくらでも書けそうなので、また別の記事としてあげるつもりです。

障害者と障害者が働く事について思うところ

気がつけば1年も記事をあげてなくて、さらにはちょっと今までとテイストの違う内容を書きますが、気が向いたら最後までお付き合いください。

私は約2年前まで障害者継続就労支援B型施設で支援員として働いていました。簡単に説明すれば、過去に就労した経験があるが、様々な事情で働き続ける事ができなかった障害者を対象に、別の職場において継続して就業できるように、様々な支援をしながら多少の工賃を支払う施設です。

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身近に障害者がいなければあまり考えないかもしれませんが、日本全体に低賃金の過重労働が蔓延している中で、障害を持つ人々が働きやすい職場というのがどれほど開かれているでしょうか。それを想像すれば絶望的というか、控えめに言っても暗澹たる気持ちになります。2018年の秋頃に障害者雇用促進法で定められた雇用率(現時点では民間2.2%、地方自治体等2.5%)を官庁などが水増ししていたニュースがありましたが、本来率先して障害者を雇用すべき行政機関からして不正をしてまで障害者の雇用を避けていたというのはこの国の隅々まで障害者差別が行き渡っている証左でもあると思います。

そもそも障害者とされる人々は、属しているはずの社会で、生活や様々な活動をする上で何らかの障害を日常的に感じざるを得ない人々だと思います。字義がネガティブだから「障碍者」としたり「障がい者」としたり、そんな表面的な事で何かが改善するものではありません。障害者に障害を感じさせているのは社会の側であり、それを構成している多数派の健常者です。我々がいわゆる障害者の人々よりも、心身が自由で多少の配慮や便宜を図る事ができる立場であれば、当然それが難しい障害者の立場に合わせた社会を作るのが成熟した市民社会です。

例えばあらゆる乗り物と建物が完全にバリアフリーで車椅子の往来に何らストレスが無くなった社会では、車椅子利用者は障害者ではなくなっているかもしれません。あらゆる書物、掲示、表現が視覚や聴覚のどちらかに偏らずに両方のどちらかでも機能を果たせるような設計であれば、聴覚障害者も視覚障害者も激減するかもしれません。どんなに医学が発達しても、感覚器や四肢の機能が一般より劣ったり不全である人々はこの先もいなくならないでしょう。しかし社会の側で、彼らが何ら不自由なく、不便なく生活できるように進歩する事はできるはずです。

2019年7月の参議院議員選挙において、れいわ新選組から特定枠で立候補した船後靖彦氏と木村英子氏が当選しました。お二人はそれぞれALSと脳性まひという難病を抱え、ほとんどベッドのような電動車椅子で登院されました。私は全ての障害者が彼らのように一線で働くべきとは思いませんが、社会に出て人との関わりの中に入っていきたいと望む人が、もし障害者だった場合にその意志を挫くことのない社会をこれから目指して作らなければと思います。

ブログを書くとすっきりする理由

しばらくブログを書いていなかったけど、もう一つ持ってる別のブログを更新したら何だか気持ちがすっとしたのでその事を書いてみます。

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最近は仕事や育児や地域の用事で毎日忙しくしていて、落ち着いて何かを考える時間を持てずにいました。時間が少しでもあれば休みたいとか、一時の興味のためにスマホでニュースを読んだりしていました。

忙しいのが好きな人もいるし、忙しいのはそれだけ周囲に必要とされている証拠だから私は忙しさそのものを否定はしません。でも世の中には忙しさに弱いというか忙しいと心を病んだり本来の能力が発揮されない人もたくさんいるので、そういう自覚がある人は多少無理を言っても忙しくない生活を目指して実現するべきだと思います。

人間って見た目がそれぞれ違うのと同じように、もしかすると見た目以上に内面というか感受性に違いがあると思います。同じ経験をしても喜ぶ人と怒る人がいるように、よほど計算して感じられ方を作りこんだ映画や番組以外は、体験はそれぞれ違った感じ方をされるものだと思います。

私の場合、周囲の平均と比べるとちょっとネガティブだったり神経質なところがあるので、時々はゆっくり落ち着いて頭の中を整理したり、嫌な思い出みたいな記憶を整理してゴミ箱に入れるような時間が必要だと思っています。

私にとってブログを書く事はそういう、いわゆるデトックスの意味もあるかもしれません。それでも一般に誰でもが読めるように公開する時には、誰かを傷つけたり悲しませたりしないようには気を付けます。最初は表現が乱暴にならないようにとか、考えながら文章を書くのに相当の労力が必要でしたが、慣れて来ると自分の中に放送コードみたいな約束が出来上がってくるのでそれほど疲れなくなりました。むしろこんがらがった頭の中の糸玉をゆっくり解いていくような気持ちになれます。

これを読んだ人も、文章を書く事で自分の中のわだかまりを解消したり、少し軽くしたりする型みたいな物が作れるようにお祈りしています。

食べ物が口に入るまでを想像する。

最近世界一シンプルで科学的に証明された究極の食事という本が話題になっています。健康に関する情報は毎日毎日テレビでもやっているし、何をいまさらと思われるかもしれませんが、どこが話題かと言えば今まで身体に良いと思われていた色々な食品が、実は良くないと医学的な観点から言われているところでしょう。

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私は自分があまり野菜が好きではないので、せめて果物を多めにとろうと思って子どもには毎朝100%のジュースを飲ませるようにしていました。砂糖は子どもの成長にとって良くないと思っているのですが、果物の甘味であるジュースなら健康にいいだろうと思っていました。でもフルーツジュースを飲む人の方が、飲まない人に比べて肥満になりやすく、糖尿病のリスクも高いそうです。

私の個人的な推測ですが、これは単にジュースが体に悪いというストレートな因果関係ではないと思います。やはり果物を絞った果汁だけを習慣的に飲むという行為は、その不自然な甘さに身体が慣れてしまって、ジュース以外にもいろいろな甘みを身体が欲してしまう結果なのではないかと思います。

ご飯が糖尿病の原因になるというのは一般に知られてきましたが、白米だけでなく小麦粉も、植物の状態から食品に変わる過程で「精製」されているかが健康に良いか悪いかの境目だそうです。玄米や全粒粉は同じ炭水化物でもむしろ健康にいいそうです。しかし、それらを精製して美味しくしてしまった白米や小麦粉は、長期間習慣的に食べ続けるとやがて糖尿病をはじめとした病気の原因になるそうです。

医学的な根拠があると言っても、単純に何種類かの食べ物が人を病気にするわけではないと思います。それらの食べ物を取り続けるようなライフスタイル、食事習慣が少しずつその人の健康を蝕んでいくのではないでしょうか。私は食べ物を選ぶ時に健康に良いかどうかの目安として、その食品の生産方法や採取方法がシンプルに想像できるかという事を考えます。例えば大根やニンジンなら畑に生えているところが想像できますし、卵やキノコも想像できます。逆にレトルト食品などは原材料の種類が多く、表示を見ても具体的にどんなものか分らないものも多く書いてあります。そういった自分では作り方が分らないような加工食品は避けた方が健康にはいいでしょう。

また、その食品がどれほどの距離を運ばれてきたのかにも注意しています。特に野菜は同じ都道府県内で採れたものがいいですし、少なくとも日本国内で採れたものを選ぶようにしています。また、その食べ物が食べられるようになるまでどれくらいの時間がかかったかも時々考えます。野菜は数カ月で成長しますし、果物も1年に一度はまとまった量が採れます。しかし牛や豚という食肉は年単位で飼育されますから、植物性の食品に比べると長い時間がかかって私たちの食卓に並びます。私はベジタリアンではないので牛や豚も普通に食べますが、それでも時間という基準で見ればなるべく減らしたい食品ではあります。

本の内容とはずれるかもしれませんが「比較的近い場所で、数カ月以内の労力で生産された、シンプルな食品を使って食事を用意する」のが私の健康法です。

誰かに喜ばれる事を喜べれば幸い

幸せとは何かってよく考えるんですけど、人によって違いもあるし、同じ人でも年代や状況によって違ってくるしなかなかシンプルに言い表すのは難しいと思います。

例えば年収が2000万円くらいあって、貯蓄も2億円くらいあれば幸せな人もいるでしょうし、年収は200万円だけど愛する家族に囲まれて幸せって人もいるでしょう。でも金銭的な指標ってあまり幸せとは直結しないと思います。結局金銭によって手に入る何かだったり、しなくていい嫌な事だったり、将来の平穏だったりという事を期待しているんだと思いますが、お金そのものは私たちに快楽や安全を提供してくれません。それらと交換が容易なのは確かですが。

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身の安全だったり衣食住の不安を感じている人というのはそれほど多くないと思います。もし衣食住に事欠く人がいれば、国民の権利として役所に行って生活保護の手続きをしてもらえばいいのです。日本では最低限文化的で健康な生活は保障されています。その上で幸福にかんしては直接保障されているわけではなく、追求する権利を有すると表現されているのです。

つまり最低限の生活はさせてもらえるけれど、幸福に生きようとするならば個人がそれを追求しなければ勝手に与えられるものではないという事を日本の憲法や法律は示しています。これは幸福を感じる状況であったり対象であったりが個人個人でバラバラであるので、自分で手に入れてくださいと一人一人が委ねられているのです。ですから、幸福になるためにはまずどんな状況が幸福と感じるのかを自分で知らなければなりません。

親や社会に流されていればいつの間にかいい大学を出ていい企業に就職して、いい人と結婚して子供にも恵まれて幸せになっていたという人もいるでしょう。でもそういう人はごくごく少数ではないでしょうか。世間のほとんどの人は、どうすれば幸せになれるのか多少なりとも考えて、自分なりの結論に従って努力したり我慢したりしていると思います。しかし、自分がこうなれば幸せだろうという目標が達成されても幸せを感じられない人がいますし、幸福感が長続きしない人も珍しくありません。

人間はそもそも変化するものですし、よほど高齢にならなければ日々成長できる存在です。そして変化したり成長したりすれば何を幸福と感じるかも変わってしまうものなのです。それを知る前には幸福だと感じられなかったような事が、知った後では何よりも幸福を与えてくれる物かもしれません。それは例えばお酒だったりセックスだったりドラッグだったり、あるいはスポーツでの勝利や子供の存在かもしれません。しかしそれを知って経験したからこそ幸福だと言えるような価値観の大転換という事が人生には何度か起きるものです。

幸せとは、一度手に入れたとしてもずっとそこに留まっていられる保証はありません。むしろどんな幸せもいつかは失われるものだと言えるでしょう。ですから、幸せを感じさせてくれる出来事が連続的に起きるような事に幸せを見出すのが賢明だと私は思います。つまり、タイトルにしたように「誰かに喜ばれる事を喜べれば幸い」なのです。誰かに何かをしてあげて、感謝された事を幸福と感じられれば、それは繰り返す事が可能ですし、感謝の連鎖は少しずつ世の中を明るく良くしてくれるでしょう。

嫌いな人と関わるストレスの逃がし方

あまり自慢できる話ではないのですが、私はどうしても好きになれない、むしろ大嫌いな人が何人かいます。そして、生活している上でどうして時々は会ったり話したりしなければいけなくて、そんな時はとても心が沈みますし、会った後には胸にどんよりとした重たいものが詰まっているような感覚を覚えます。

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そんな人とは付き合わないのが一番なのですが、いろいろと事情があってそうもいかないのです。きっとそういう事情の人は珍しくないんじゃないかと思います。たとえばそれが家族だったり職場の上司や同僚だったり、町内会や何かのメンバーだったりで、社会通念上付き合わざるをえない人と、どうしても合わないという事は誰にでもありえると思います。そんな嫌な人間関係のストレスをどうやって緩和しているかを書いてみようと思います。

まず事前にその人と会うのが分かっている場合は直前まで意識的にそれを忘れて行動するのがいいでしょうか。あぁあの人と会うの嫌だなぁと憂鬱な気持ちで過ごす時間はできる限り少なくした方がよいのです。時間や予定を忘れて楽しめるような事をして過ごしましょう。

次にまさに面と向かっている時には、できる限り別の楽しい事を考えましょう。この辛い時間が終わったら何か美味しいものを食べるとか、好きな人や家族と過ごすとか、近い将来の楽しい予定を考えて目の前のつらい現実と向き合わないようにしましょう。

私の場合、嫌いな人と会った後にも胸がむかつくような不快感が残るのですが、これは声を出すと少しすっきりします。身体の中にあるネガティブな何かを、大きな声と一緒に吐き出せば多少楽になります。そして自分が本当に大切な人と一緒にゆっくりと過ごす事で荒れた気持ちもだんだんと落ち着いてきます。

大事なのは他人に対して自分の不愉快さをぶつけない事、できれば苦しんでいる姿も見せない事です。それが暴力的なセクハラやパワハラが原因ならば別で警察や労基署に相談するべきですが、人間の相性に根差している問題ならば個人的に解決する方が無難です。誰かを嫌う、避けたいと思う気持ちは生理的、感覚的な部分が大きく、身近な人でもあまり共感してもらえない事が多いからです。

心に妬みや憎しみを溜めたままにすると健康にも悪いですし、日々の生活を楽しむ気持ちにもなれません。悪感情はなるべく早く流してしまって、自分の人生を楽しみましょう。

言葉は少ない方が価値がある

私の古くからの友人にとても社交的な人がいます。彼は男としてはおしゃべりな方で、遮らなければ何時間でも一人でご機嫌に話を続けます。最近その彼を見ていて感じた事ですが、結局一人の人間が語れる内容というのはそれほど膨大ではないし、近い環境で生きている人ならそれほど差もないという事です。

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つまり、身近な人同時が何かを語る時、そこにいる誰もが何かしら話したい聞きたいという気持ちでいたとしても、価値のある内容というのはそれほど多くはなく、ほとんどは既知の話題であったり調べればすぐ分かる事実であったりします。しかし、人間の内実の差以上に、語られる言葉の量というのは差が大きいものです。ある人は言葉を選んで必要最小限のフレーズで伝えようとしますが、ある人は装飾や例えを多様して内容を大きく膨らませた分量を語ります。それは結局はその人の性格や個性でもあるのですが、しかし意識的に調整可能な個性です。
私はなるべく言葉を少なくして、誤解されぬように短く喋るのが好みですし、実際そのようにしています。しかし残念ながら感傷的な表現や共感を省きすぎると冷たい人だと評価される場合もあります。実は損得で考えればやたら言葉の分量を多く喋る人の方が社交的で親しみやすいと感じられる傾向がありそうです。しかし、その人との付き合いが長くなれば、何だか内容に乏しくて聞いているのが疲れるという感想を持ってしまいます。ですから、可能ならば初対面や付き合いの浅いうちは社交的に、積極的に喋るようにして、だんだんと装飾や無駄をそぎ落とした言葉選びに変えていけば時と共に信頼を得られ易いのではないかと思います。

以心伝心という言葉もありますが、言葉にせずとも思いが伝わるというのは両者が同じ理想や目的を見据えている時の特殊な状況であって、日常に期待されるものではありません。私たちは言葉にしなければ他人に何かを伝える事は叶わないし、言葉にしてしまえば意図しない事をも伝えてしまう場合があります。伝えたい事を過不足なく伝えるというのはとても高度な技術が必要ですし、相手によってコミュニケーションの方法を変えなければいけません。そのためにも、常日頃から必要な言葉を短く選ぶ癖をつけて、必要に応じて加飾する臨機応変さを身に着けたいものです。