貧しくても幸福に生きる日々

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熊本地震の被災者のために、何をするべきか考える

一連の熊本県および大分県、周辺各県での地震被害に遭われた方にお見舞い申し上げます。もしかすると避難所や避難先でこれを読まれている方もいるかもしれません。
私が住んでいる地方も時々揺れているので、いつ震度5震度6といった大地震が来るかと身構えています。熊本から多少離れている当地でもこれくらいの心労があるので、現在避難されている方々の苦労はいかばかりかと胸が苦しくなります。

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今日も一日Twitterを中心に、避難されている皆さまの状況を知ろうと努めていました。幸い指定避難所には物資が届き始めたようですが、情報伝達の上手くいっていない避難所もあるようで心配です。私にできる事は何だろうと考えて、明日は避難希望の方を受け入れる住宅準備のために、関係者と協議をしてみようと思います。

今日はなるべくテレビを見ずにインターネットだけで情報収集していたのですが、大きな揺れが収まりつつあると思われていた中で、エンターテイメントの情報もそれなりに目にするようになりました。それがお仕事の方も多数おられるのはもちろん分かりますが、一方でこの非常時にそれよりも大切な事はないのかと思うような、くだらないものもいくつか目にしました。

身近な人が亡くなったら多くの文化には「喪に服す」という習慣があります。人の死という悲しい出来事を厳粛に受け止め、時がそれを和らげてくれるのをじっと待とうという大昔からの知恵ではないでしょうか。
今回の熊本地震では、この記事を書いている時点で42人の方が亡くなっています。まだ行方不明の方もいらっしゃいますし、決して少なくない人数です。直接の友人や知人ではないにせよ、私は数日でも喪に服したい気持ちです。まして20万人もの人が避難生活を余儀なくされている時に、何かを楽しむ気持ちにはなりません。

被災された人々のために何ができるかを考えるのと同じくらい、あるいはもっと強く、自分が被災して避難生活を送る事について想像します。私も避難所にいて、空腹とプライベートのなさと、重苦しい空気と様々な匂いと、新たな地震の恐怖と将来の不安と、他所の人の無神経さと無関心さを感じます。

そして一人の被災者として考えます。私はこれからどうすればいいのだろうか。また、私は誰かにどうして欲しいのだろうか、と。どうすればいいか分らない時は、どうすればいいか分かるまで考えるべき時なのだと思います。

私は、避難所での生活を余儀なくされる人が一人でも減るように、明日から行動する予定です。しかし「何もしない」事も、それが真剣に考えられた上での選択ならそれもまた正しいと思います。被災した人々がこれ以上何も失わないように祈る事も尊いと思います。自衛隊や消防、公務員や経験あるボランティアなど、専門家を信頼して託し、日常を生きるのもまた尊いと思います。大切なのはどれほど悩み考えて選択するかでしょう。