貧しくても幸福に生きる日々

金儲けに必死にならず、楽な生活をお伝えします。

幸せとは瞬間を面白がれるかどうか

自分の身を振り返って、客観的な条件では幸せなはずなのに、あまり幸福感がないように思ってました。

本当はもっと幸せだと感じてもいいはずなのに、何か自分が報われてないように感じていました。

これは多くの人に共通する感覚なのではないかと思います。

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そもそも幸せって何なのだろうといろいろと自己啓発のような本も何冊か読んでみましたが、結局のところは今この瞬間を楽しめるかどうかの繰り返しなのだというのが今のところの私の結論です。

勉強して受験に成功しても学校での課題や成績が試練としてやってきて、いい成績で卒業の見込みが立てば今度は就職やその他進路の問題で悩み、職に就けば待遇や人間関係やキャリアの問題で悩み、恋愛や結婚や、子育てや介護や、おそらく人間死ぬまで悩みは尽きないし、ここで自分が完全に理想の状態になったという日も来ないでしょう。

すると、幸せを先延ばしにして今我慢や努力をするのではなく、今すべきと思うところをできる限り楽しむのが多くの幸せな瞬間を重ね、日々を生き生きと生きられるために必要な全てではないかと思います。

5年後10年後の自分のために後悔のない行動を今しながらも、この瞬間の体験を可能な限り面白がる、新鮮に感覚する事の繰り返しが、充実し幸福な生き方なのだと私は今考えています。

そして自分らしくある事。

自分の個性や興味が行動に反映されれば良い結果が出やすいですし、もし望む結果が出なくて、満足できるものが後に残るはずです。

私も自分らしくあるために、自分のために文章を書く習慣を続けていこうと思っています。

柿の新芽が美しい日

朝の日差しに柿の木の新芽が美しい。

2年ほど前に一度切られてしまった木なのに、去年一年で蘖が伸びて、今年は綺麗な新緑を芽吹かせた。

また春が来て一年が過ぎたのだなと思う。

この一年で何人かの親しい人の喪に立ち会った。

何人かの親しい人に子供が生まれた。

私の身の回りは概ね平和だけど、ウクライナでは戦争が始まって、21世紀で最悪の虐殺と人権侵害が未だに止まっていない。

それでもこの一年、自分なりに誠実に生きて、できるなりの親切をしてきたと思っている。

もしかすると、自分の行為が良い波紋のように広がって伝わって、見知らぬ誰かに良い影響を与えたかもしれない。

眼の前の春の美しい光景は、そこから返ってきたささやかな返礼だと思って、私はそれに少し感動している。

コロナ禍でお金の使い方を考える

コロナ禍で旅行もショッピングも、今まで通りにはできなくなってしまいました。
アマゾンや楽天でネットショッピングはできたとしても、やはり大きなショッピングモールやデパートをぐるぐる回って、想像もできなかったような新しい商品に出会う事はとても楽しいものです。
私達はお金を支払って商品やサービスを買っていますが、それは「交換」をしているわけで、そもそも「交換」そのものも人間にとって楽しみであると思います。そうした「交換」の楽しみが今かなりの制限を受けています。

「旅行」というのも多くの人にとってメジャーな娯楽だと思います。観光というのも楽しいものですが、やはり人間の本能として「移動」を快楽として感じる事があるそうです。人によって違うとは思いますが、ただ「移動」するだけで楽しみを感じる人も少なからずいるそうです。

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新型コロナウイルスによって、私達はできる限り動かずに、人と会わずに過ごすことを求められてきましたし、この先も当分はそれが続きそうです。

気がつくと、節約をしているわけではないですが、娯楽に使えるお金が減った事で、以前と比べると残るお金が時々あります。大した金額ではないですが、そういうお金をどうするのが自分と周りにとっていいのだろうと考えます。

困ってる人に寄付をする?動物でも飼う?投資信託やFXで増やしてみる?どれも今の自分の気分とはしっくりこない感じがしました。
なので私が考えたのは、できる限り近くでお金を使おうという事です。たとえアマゾンの方が安くても近所の電気屋さんで電球を買うとか、駅前のドラッグストアの方が安いけど、もっと家から近いスーパーで冷凍食品を買うとかそういうちょっとした事です。
同じ価値のものなら安い金額で手に入れるのが合理的で賢い選択だとしばらく前まで思っていました。でも今は少し考え方を変えました。
同じような品物でも、誰から買うかによって価値は変わってくるように思います。少なくとも、顔なじみの店員さんから買う方が、まったく知らない店の人から買うよりも少しだけ温かい気持ちになったりします。買い物の機会を減らすべき今だからこそ、その少なくした機会に気持ちの良い買い物をしたいと思います。

買い物は投票に似ていると言われます。何を買うか、どこで誰から買うかというのは、作った人、運んだ人、売った人との関わりを作る事で、政治的な支持に近いものがあります。私達はこのコロナ禍が過ぎた後にどんな世の中になっていて欲しいかを考えながら、何とか今を我慢して過ごさなければと思います。

「アウトップット大全」という本を読みました

しばらく忙しくしていてブログを書いていなかったのですが、10日くらい前に買ってさっき読み終わった本に影響されたので、また書いてみようと思います。

近所の本屋さんに平積みしてあったビジネス書ですが、樺沢紫苑という精神科医が書いた「アウトップット大全」という本です。隣にはインプット大全という本もあったのですが、ここ数年は自分の年齢も考えて、自分の乏しい知識や経験でも若い人たちに役立つものもあるんじゃないかと思っていたところで、アウトプットの方を選びました。

内容はシンプルで、本を読んだり学習したりしても、アウトプットをしないと自分の中に定着しないので、インとアウトを7:3くらいの割合で行うのが学習や成長に効果的という趣旨でした。

確かに、社内の講習などでもただ聞いてるだけだと1週間もすればほとんど内容を覚えてなかったりしますが、自分が講師を担当するとなると、1ヶ月前から準備をしますし、間違いがないか何度も確認しようとするので必然的に正確に深く理解ができると思います。人に向かって教えるというのは、インプットに対する緊張感を高めて内容を濃くしてくれる効果があります。

また、どんな本でも人に内容を話す、説明することをしていると、話してるうちに自分の理解が甘い部分とか論理があやふやな部分が自覚されるのでもう一度その箇所を読み返してみようかという気持ちにもなります。小説とか芸術鑑賞に対するアウトプットというのはなかなか難しいですが、感想を伝える事で周囲の人がそれを見たい読みたいと感じるような共感を生めるなら、良いアウトプットと言えるでしょう。

私はビジネス書というのはそれほど好きではないのですが、せっかく一定の成果を上げて成功している人がノウハウを教えてくれているのだから、少しはそれに従ってみるのも悪くないかなと思います。

少し本の内容からは外れますが、感覚としていいなとか悪いなとか、好きとか嫌いというものが自分の中に生まれたとして、しかしそれはその時点の自分の経験と知識にしか基づいていないと思います。好きじゃないなと感じた仕事でも、やってるうちに楽しさを見出す事も過去何度もあったし、人間の感覚は常に少しずつ変化しているので、できるだけ拒絶せずにいろいろな人と付き合ったりいろいろな経験を重ねて、視野の広い、深みのある人間になれればいいなと思っています。



4年と少し子育てをしてみての雑感

少し遅かった結婚と子供の誕生でしたが、大きな病気や怪我もなく、順調に成長してくれています。毎日大変ですが、小さな気付きはどこかに記録しておかないと忘れてしまうと思うので、この記事にまとめます。

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1.子供は少しずつしか成長しない
子供時代なんて一瞬だとか、あっという間に大きくなるという言い回しもよく聞きますが、毎日世話をしなければならない親の実感としては、子供の成長には本当に時間がかかります。ほとんど変化のない毎日を過ごして、半年とか一年後にやっとはっきりとした成長が感じられる程度です。それでもやはり大人に近づいていて、少しずつ少しずつ虫が這うような感じで成長していて、長く我が子の子供時代を一緒に過ごせるのが幸福でもあります。

2.必要なのは体力と忍耐力
新生児から1歳くらいまでは一晩寝かせてもらえません。2、3時間おきにはおっぱい/ミルクかオムツ交換で起こされます。そして1歳以下の乳児は眠いという理由でも泣きます。大人からすれば眠い時には寝れば解決すると思うのですが、眠気という言葉を知らない乳児には、眠い時の頭のぼんやりして瞼の重い感じがその他の苦痛と区別が付かずにただ泣くしかないのです。ひたすら毎日話しかけ続けて、「ねんね」や「ねむい」という言葉を覚えさせれば眠くて泣くのはだいたいなくなります。逆に寝起きで泣く事は4歳過ぎても人によってあるようです。
少し成長すると子供は絵本を読んでもらったり、一緒にボールで遊んでもらったりするのを喜びますし、大人に遊んでくれるように要求するようになります。それは大変かわいらしいのですが、同じ絵本を3回も5回も繰り返し読まされたり、ただボールを転がし合うだけの遊びをいつまでも飽きずに続けたりします。そこで試されるのが親の忍耐力です。子供は遊びを通じて知恵を付けますし、大人の話や絵本から言葉を覚え、あらゆるものに名前があり、複雑な世界を理解していきます。そのためには両親をはじめとした周囲の大人が忍耐強く子供自身の興味に合わせて、成長段階に合わせて遊びに付き合ってやらなければいけません。テレビやビデオ、Youtubeを見せておけばほったらかしでも平気ですが、今その子にあった教材というのは、やはり本人が強い興味を示しているものが一番だと思うので、注意深くそれを見極めて、忍耐強く提供してあげるのが親の務めかと思います。

3.スマホの誘惑は怖い
子育ては子供が起きてる間はほとんど休みなく注意を要する大変な仕事です。2歳以下の子供は油断して目を離すと、家の中であってもぶつけたり落ちたりしてどんな大怪我をするか分かりません。3歳や4歳で自由に走り回るようになると今度は交通事故の心配が一段と高まります。今はほとんどの成人がスマホを持っている時代で、子育ての合間でもニュースを見る、ブログを読む、動画を見るといった大人の興味関心を満たしてくれるコンテンツが用意に手の届くところにあります。しかし、ちょっとスマホを見ている間に子供が怪我をする事もありますし、遊んで欲しい子供の声を無視してしまって、子供を傷つけたり悲しませる事もあるでしょう。幼児を抱える親は自分の時間もなく、一人でどこかへ行くのも難しいので、つい手軽な気晴らしにスマホを使ってしまいますが、その誘惑に負けずにしっかり子供を見てあげたいと思います。見る事、観察して見守る事は最もベーシックな愛情表現であると思います。少しおしゃべりができるようになった子供は、必ず「見てて」と言います。親に自分ができる事を見てもらいたい、褒めてもらいたいという気持ちが出てきます。愛する人に見られたいというのも本能的な欲求ですから、ほんの数年間、自分の欲求を抑えながら子供を見つめる時間をなるべく多く作りたいものです。

とりあえずこの記事は以上にしておきます。
いくらでも書けそうなので、また別の記事としてあげるつもりです。

障害者と障害者が働く事について思うところ

気がつけば1年も記事をあげてなくて、さらにはちょっと今までとテイストの違う内容を書きますが、気が向いたら最後までお付き合いください。

私は約2年前まで障害者継続就労支援B型施設で支援員として働いていました。簡単に説明すれば、過去に就労した経験があるが、様々な事情で働き続ける事ができなかった障害者を対象に、別の職場において継続して就業できるように、様々な支援をしながら多少の工賃を支払う施設です。

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身近に障害者がいなければあまり考えないかもしれませんが、日本全体に低賃金の過重労働が蔓延している中で、障害を持つ人々が働きやすい職場というのがどれほど開かれているでしょうか。それを想像すれば絶望的というか、控えめに言っても暗澹たる気持ちになります。2018年の秋頃に障害者雇用促進法で定められた雇用率(現時点では民間2.2%、地方自治体等2.5%)を官庁などが水増ししていたニュースがありましたが、本来率先して障害者を雇用すべき行政機関からして不正をしてまで障害者の雇用を避けていたというのはこの国の隅々まで障害者差別が行き渡っている証左でもあると思います。

そもそも障害者とされる人々は、属しているはずの社会で、生活や様々な活動をする上で何らかの障害を日常的に感じざるを得ない人々だと思います。字義がネガティブだから「障碍者」としたり「障がい者」としたり、そんな表面的な事で何かが改善するものではありません。障害者に障害を感じさせているのは社会の側であり、それを構成している多数派の健常者です。我々がいわゆる障害者の人々よりも、心身が自由で多少の配慮や便宜を図る事ができる立場であれば、当然それが難しい障害者の立場に合わせた社会を作るのが成熟した市民社会です。

例えばあらゆる乗り物と建物が完全にバリアフリーで車椅子の往来に何らストレスが無くなった社会では、車椅子利用者は障害者ではなくなっているかもしれません。あらゆる書物、掲示、表現が視覚や聴覚のどちらかに偏らずに両方のどちらかでも機能を果たせるような設計であれば、聴覚障害者も視覚障害者も激減するかもしれません。どんなに医学が発達しても、感覚器や四肢の機能が一般より劣ったり不全である人々はこの先もいなくならないでしょう。しかし社会の側で、彼らが何ら不自由なく、不便なく生活できるように進歩する事はできるはずです。

2019年7月の参議院議員選挙において、れいわ新選組から特定枠で立候補した船後靖彦氏と木村英子氏が当選しました。お二人はそれぞれALSと脳性まひという難病を抱え、ほとんどベッドのような電動車椅子で登院されました。私は全ての障害者が彼らのように一線で働くべきとは思いませんが、社会に出て人との関わりの中に入っていきたいと望む人が、もし障害者だった場合にその意志を挫くことのない社会をこれから目指して作らなければと思います。

ブログを書くとすっきりする理由

しばらくブログを書いていなかったけど、もう一つ持ってる別のブログを更新したら何だか気持ちがすっとしたのでその事を書いてみます。

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最近は仕事や育児や地域の用事で毎日忙しくしていて、落ち着いて何かを考える時間を持てずにいました。時間が少しでもあれば休みたいとか、一時の興味のためにスマホでニュースを読んだりしていました。

忙しいのが好きな人もいるし、忙しいのはそれだけ周囲に必要とされている証拠だから私は忙しさそのものを否定はしません。でも世の中には忙しさに弱いというか忙しいと心を病んだり本来の能力が発揮されない人もたくさんいるので、そういう自覚がある人は多少無理を言っても忙しくない生活を目指して実現するべきだと思います。

人間って見た目がそれぞれ違うのと同じように、もしかすると見た目以上に内面というか感受性に違いがあると思います。同じ経験をしても喜ぶ人と怒る人がいるように、よほど計算して感じられ方を作りこんだ映画や番組以外は、体験はそれぞれ違った感じ方をされるものだと思います。

私の場合、周囲の平均と比べるとちょっとネガティブだったり神経質なところがあるので、時々はゆっくり落ち着いて頭の中を整理したり、嫌な思い出みたいな記憶を整理してゴミ箱に入れるような時間が必要だと思っています。

私にとってブログを書く事はそういう、いわゆるデトックスの意味もあるかもしれません。それでも一般に誰でもが読めるように公開する時には、誰かを傷つけたり悲しませたりしないようには気を付けます。最初は表現が乱暴にならないようにとか、考えながら文章を書くのに相当の労力が必要でしたが、慣れて来ると自分の中に放送コードみたいな約束が出来上がってくるのでそれほど疲れなくなりました。むしろこんがらがった頭の中の糸玉をゆっくり解いていくような気持ちになれます。

これを読んだ人も、文章を書く事で自分の中のわだかまりを解消したり、少し軽くしたりする型みたいな物が作れるようにお祈りしています。