貧しくても幸福に生きる日々

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障害者と障害者が働く事について思うところ

気がつけば1年も記事をあげてなくて、さらにはちょっと今までとテイストの違う内容を書きますが、気が向いたら最後までお付き合いください。

私は約2年前まで障害者継続就労支援B型施設で支援員として働いていました。簡単に説明すれば、過去に就労した経験があるが、様々な事情で働き続ける事ができなかった障害者を対象に、別の職場において継続して就業できるように、様々な支援をしながら多少の工賃を支払う施設です。

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身近に障害者がいなければあまり考えないかもしれませんが、日本全体に低賃金の過重労働が蔓延している中で、障害を持つ人々が働きやすい職場というのがどれほど開かれているでしょうか。それを想像すれば絶望的というか、控えめに言っても暗澹たる気持ちになります。2018年の秋頃に障害者雇用促進法で定められた雇用率(現時点では民間2.2%、地方自治体等2.5%)を官庁などが水増ししていたニュースがありましたが、本来率先して障害者を雇用すべき行政機関からして不正をしてまで障害者の雇用を避けていたというのはこの国の隅々まで障害者差別が行き渡っている証左でもあると思います。

そもそも障害者とされる人々は、属しているはずの社会で、生活や様々な活動をする上で何らかの障害を日常的に感じざるを得ない人々だと思います。字義がネガティブだから「障碍者」としたり「障がい者」としたり、そんな表面的な事で何かが改善するものではありません。障害者に障害を感じさせているのは社会の側であり、それを構成している多数派の健常者です。我々がいわゆる障害者の人々よりも、心身が自由で多少の配慮や便宜を図る事ができる立場であれば、当然それが難しい障害者の立場に合わせた社会を作るのが成熟した市民社会です。

例えばあらゆる乗り物と建物が完全にバリアフリーで車椅子の往来に何らストレスが無くなった社会では、車椅子利用者は障害者ではなくなっているかもしれません。あらゆる書物、掲示、表現が視覚や聴覚のどちらかに偏らずに両方のどちらかでも機能を果たせるような設計であれば、聴覚障害者も視覚障害者も激減するかもしれません。どんなに医学が発達しても、感覚器や四肢の機能が一般より劣ったり不全である人々はこの先もいなくならないでしょう。しかし社会の側で、彼らが何ら不自由なく、不便なく生活できるように進歩する事はできるはずです。

2019年7月の参議院議員選挙において、れいわ新選組から特定枠で立候補した船後靖彦氏と木村英子氏が当選しました。お二人はそれぞれALSと脳性まひという難病を抱え、ほとんどベッドのような電動車椅子で登院されました。私は全ての障害者が彼らのように一線で働くべきとは思いませんが、社会に出て人との関わりの中に入っていきたいと望む人が、もし障害者だった場合にその意志を挫くことのない社会をこれから目指して作らなければと思います。